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【座談】山田耕筰:この道

作詩:北原白秋(1885-1942) 作曲:山田耕筰(1886-1965)
1926年に発表された北原白秋と山田耕筰の共同作品。先に挙げた「かやの木山の」も同じ作詩・作曲者によるもの。

今回は山田耕筰作曲の「この道」をテーマに自由にトークをしてみようと思います。

私は基本的には「この道」は男性が歌う曲だなーっていつも感じています。

それは作詩者、作曲者が共に男性だから?

なんでかなあ。やっぱり北原白秋自身の幼少期の思い出とか、小さい男の子とお母さんが手をとって歩いている姿を連想してしまうからかな。

なるほど。俺はなんとなく自分自身に重ね合わせる部分があるけど、それは自分が男性だからだろうか。

ちょっとその解釈に関する話し、ふくらませてみたいなあ。

どういう風に?

例えば、これは男性、これは女性って社会的イメージがある曲ってどんな曲があるかな?もしくは、個人的にこれは「歌えない」と思う理由がそういうところに依拠しているもの。

例えば、中田喜直の「サルビア」なんかは女性だと思うし、「木兎」なんかは男性だと思うかな。

F. シューベルトの「白鳥の歌」は男性のイメージが強いと思う。

とても表面的な例を出してしまうと、R. シューマンの「女の愛と生涯」の場合、女性が歌うのが好ましいっていうのはそのタイトルからも分かりやすい。でもF. ディースカウ(バリトン)は録音してる。なんかそれって、さっきの作詩・作曲者が共に男性だからとか、そういう問題を超越しているような気がしているんだけど、なにか表面的な理由の他に、作品を歌唱するスタンスっていうのがあるんだろうね。

「この道」に戻ると、自分自身の感覚を重ねるというよりはそれぞれの登場人物の想いを想像して歌おうとしているかな。

なるほど、自分自身を詩と照らし合わせるパターンと、それぞれの登場人物の想いを汲むパターンか。これって「この道」について言うと、どっちが良いとかあるの?

うーん、そうね。「この道」の場合は、必ずどっちとは言えないんじゃない?それこそあの、演奏者の解釈に委ねられてる部分も多いと思うんだけど。

でもさあ、僕が思うのは、歌い手は何かを根拠にしてこの曲は”こっちのスタンス”として無意識にジャンル分けしてしまっているような気がする。結局は木川さんが「演奏者の解釈に委ねられている」と感じることについても、結局は何らかのベクトルによって分類してるってことでしょ?自分自身を重ねても良い、と思うのか、登場人物の想いを汲んでいこうと思うのか。

自分に重ねられるものなら、自分としても歌えるんじゃないか、とは思うかな。

「この道」では”お母様”という言葉が1つのポイントだと思うんだけど、お母様の気持ちと少年の気持ちの両方の気持ちがある。大人になった主人公の話だとしても、どこかにお母さんの影があって。。。主人公だけじゃなくて、幼少期の温かい関係を感じます。

伊藤さんの意見を少し一般化すると、例えば、歌い手と作品で描かれる主人公との関係が1体1ではないってことだよね。難しい言葉を使うと複層的に演奏する、というか。なんていうのかな、ある特定の登場人物の視点からぶれない演奏ではなく、例えば、主人公の今と昔を行き来するような時間軸もあれば、お母様の気持ち、思いという横の関係もそこに絡み合ってきたり…。

1番から4番までを通して、常に主人公の視点ではなくて、幼少期だったり大人になったりお母様のことを投影したり、まさにそんなイメージです。

俺はこの曲が自分自身に重ね合わせる部分があるように感じられるし、だからこそ自分自身の視点から語っているような印象を持っている。

その場合、単純な興味なんだけど、経験したことがない場面とかはどういう風に自分と重ね合わせるの?

その歌詞がイメージしやすいものだとすれば、自分の体験に重ねて擬似的な記憶を作るし、あるいは歌詞に歌われているものを概念として捉えて、詩人にとっての「それ」が自分にとっての「なに」なのかを考えて、それを思い浮かべたりする。例えば、俺はこの曲を歌うときになんとなく浮かんでくるイメージというのが、子供の時に保育園に通ってた道なのね。決してそこにアカシアの花はなかったけれど、替わりになるイメージは俺の中にある。これが解釈としてアリなのかどうかはわからないけど、作品に想いを込めるには一つの手段だとは思っているかな。

対話ってことだね。作品を通して、自分の人生を振り返ったり、深めたりするってことか。それは芸術が持ってる1つの側面であることは間違いないね。 「この道」の演奏解釈については、伊藤さんのように作品の世界を見つめながらも主人公だけの視点に留まらないということも可能だと思うし、木川さんのように自身の人生に置き換える事も可能だと思う。この幅が許容されていて、この揺らぎが可能であることこそ、今まで様々な歌い手によって歌い継がれてる理由の1つなのかもね。どんな解釈でも楽しめる作品とも言える。