座談 za-dan
【座談】家でも出来ることを通して音楽の熱を燃やし続ける!
みなさん、元気ですか?
元気だけど、暗いよね。暗くなっちゃう。
確かにね。
これまで、こんなに歌うことが禁止されるって今までになかったですよね。歌うとリフレッシュできて、体に良くて、そしてみんなで一緒に歌うと楽しいし…。合唱団の自粛をしたり、歌ってはいけないというのは、改めて考えさせられる時間。歌わない時間がすっごく長いから、素直にさみしい。
歌わない時間が長いのは確かだね。いま大事なのは音楽への思いを持ち続けて、またみんなで一緒に歌えるときに向けて、家でもできることを考えるってことだと思う。
これまでのmu-shipの記事の中にも、家でできそうなことを紹介している記事がありましたよね。それを今回はみなさんにご紹介していくってのはどうでしょうか?
はい!
いいと思います。各自これまで発信してきたものについて、紹介してもらえますか?
私の記事では「健康に歌うこと」を特に発信したいと思ってます。ゆがんだものからはゆがんだものしか生まれないと思っているんですよね。一見、「きれいだな~」とか「美しいな~」とか思える声でも、その人の深から出た声でなければ、声を痛めてしまう原因にもなるし、歌い続けることができない可能性も気になります。実際、私も「あっ、これ歌い続けることができない」と思ったことがありました。
そうだったんですか。
それまで当たり前だと思っていたことは、意外と人に伝えることはできなくて、感覚的にできていたことの多さにも気づきました。これは私たちが当たり前のようにひらがなを読めるのと一緒で、なんでひらがなを読めるのかについて説明することは難しいことに似ています。だってこうだから、と思ってしまうように。「あ、自分がいつもと違う」と思ったときに、「これでは自分で自分の歌を治せない」と思った。それで深く考えるようになった。
それでみんなに紹介したいと思ったんだ?
そうですね。なんか、だましだまし声を出している感じから、どうしてその声が出せるのか、というのを紹介したいと思うようになった。
自分も納得できる記事を伊藤さんがまとめてくれてるから、とても参考になる。
伊藤さんの記事のうち、自律神経の内容はとても面白かったけど、どういう経緯で書こうと思ったの?
私は人前にたつのに、天候や気分、健康に左右されることって多いんですよね。そういうのって自律神経につながっていて、それをいつもニュートラルに戻してから演奏に入ることを大切にしたいと思ってます。いつも「いつも通りの私」というのが確立されるようになってきたのかなーと思い始めたことから、記事にしてみようと思いました。
自律神経って整えようと思ったらすぐ整うものじゃないから、毎日の意識の積み重ねが大事だと思うと、そういう意味で、僕には「明日もちゃんと歌えるように」っていうメッセージが含まれているように思えて、この記事って素敵だなって思いましたね。その他にも、舌をテーマに取り上げてますが…?
なんかリズム感が悪い時があって…。
リズム感というと?
舌については、「鞠と殿様」(西條八十作詞/中山晋平作曲)の冒頭で、なかなか「て”ん”て”ん”」の”ん”の裏拍がきれいにいかなかったことがあるんですよね。その時に、舌の筋肉がうまく発達していなかったり、使いこなせていなかったことが気になって、そういうことで悩んでいる人をサポートしたいと思ってあの記事を書きました。私たちの体は1人1人違いますよね。だから、自分の身体への正しい理解を促して、自分で自分の舌を使いこなせるような手助けをしたいと思いました。
少し話がずれるかもしれないけど、歌い方の指導って「もっと〇〇しなさい」というレッスンが多いと思うけど、例えば「ハミングしなさい」と言われてやってても、首に力が入っていたり、肩に力が入っていたり、もっと言うと、先生に言われた通りハミングをしているつもりでも、口の中では舌の位置が先生とは違ったり…。俺は教えるときに、例えばハミングを通して「声を集める」ように指導するのではなくて「声が集まる」ように指導したいと思ってるんだよね。音程も「よくする」のではなく、「よくなる」ようにしたいと思っていて、そういうアプローチを大切にしてるかも。
じゃあ、この流れの延長で…。木川さんは階名唱と相対音感について記事をあげていらっしゃいますけど、これにはどういう背景があったりするんですか?
簡単に言うと、自分の音程についてコンプレックスがあったんですよね。それでピアノで音を確認しながら練習するようにしていたんだけれども、それだとピアノに音程を依存することが気になっていました。そこで、階名唱に目が向いて、相対音感的なものにも発展していった。これらのトレーニングをするようになって、3か月とか、4か月とかたってくると、不思議と音程がはまるようになってきたんですよね。音程の良さは歌唱のテクニックとももちろん関係があるけど、全体的なボトムアップにつながったと思う。
それはすごい出会いと努力だね。尊敬する。木川さんのHPの「essay」には「音名と階名」のような解説ページと相対音階の” 練習問題”があると思うけど、それらが理解できたり身についてくると、さっき言ってくれた音程がはまるようになるという以外に、どういう良いことがあるの?
階名唱ができるようになることの良さは、なんと言っても楽器がなくても音取りができるようになることだと思うんだよね。
歌いだすときに、「この音であってんのかな?」と思わなくてもどこからでも歌い始められるようになりますよね。
楽器がなくても、相対音感さえしっかりしていればどこでも歌いだすことができるし、「歌える!」という楽しさに素直につながっていくと思うんだよね。階名唱が使いこなせると、極論、音取りが不要になる!
あえて「音痴」という言葉を使うけれども、音痴な人っていうのは、「聞いた音をそのまま覚えている人」なのかもしれないって思う。どういうキャラクターでどういう文脈で、という「音の意味」を無視して音を覚えている人は「音痴」だと思う。
絶対音感は、人間の発達上、ある特定の期間にトレーニングをしなければ育たないといわれているけど、相対音感は人生のどのタイミングでもトレーニングできるというのは無視できない特性だと思う。
確かにそうですよね。そろそろ小田さんのコーナーの紹介もお願いしたいんだけど、さっき私が言った「音の意味」みたいなところって小田さんの記事がズバりだと思うんだけど、記事の背景とかがあれば紹介してください。
まず、「歌うこと」って本当にたくさんの知識に支えられていると思うんですよね。例えばドイツの声楽教育を考えると、まず発声のテクニックだけを教えてくれる先生がいて、大学の授業の中には解剖学があって、そこでは私たちの身体は実際どうなっているかということを学びますよね。また、それらとは別に作品解釈の先生がいて、またそれらすべて総合した声楽の先生がいる。
確かにそうですね。
でも日本では、ドイツならば何人もの専門家が教えてくれるところを、1人の声楽の先生がマルチに対応していますよね。これはまず、ものすごい事だと思う。でも、そうなると不思議と日本の声楽教育の癖みたいなものも出てきて、「良い声」を求める代わりに「解釈」の少し優先順位が低くなってきているようにも感じます。
良い声が無いと聴いてもらえない、というのはあるかもね。
そう。じゃあ、どうやったら日本で「解釈」というものの比重が大きくなるのか考えると、実はそこには障壁もあって、それは「西洋の文化、言語を理解する」ということだと思うんだよね。外国語だから理解できない、私たちとは違う文化を持っているから理解できない、となってしまうと、本当に作品を探究する以前に、心のどこかにある「諦め」が探究を邪魔してしまうと思うんだよね。そうすると、作品を深く解釈する方法が身につかないから、日本の作品を勉強する方法も身につかないと思う。
とりあえず、思っていることを一回全部語るね(笑)。僕が指す解釈っていうのは、1つの作品をあらゆる角度から見まくった結果、「こう演奏してみたい」というものが心に湧き上がってくることを言いたいと思うんだけど、よくあるミスは、自分にとって都合の良い情報だけを集めて、あたかも調べたつもりになって、あたかも歴史的事実に則って演奏しているつもりになってしまうこと。僕のページの”memo”では、パレストリーナのような歴史上の巨人を扱うときには、何冊もの本で書かれたことを一堂に並べて俯瞰してみたり、三好達治の「鷗」を扱うときにはその作品だけでなく、彼が生きた時代や、他の作品の参照を主に一堂に並べてみているけど、それでもまだまだ一部だと思っているんですよね。ただ、1つや2つの情報を見ただけで「ふむふむ」と思っているよりは、格段に複雑な気持ちになったり、どうしたらよいか分からなくなると思うんですよね。でも、それが新しい解釈とか、本当に自分の心が作品と向き合っているということなんだと思う。
小田さんのあの資料はあまりに膨大で、まずなんであんなに資料を集められるのか、そしてそれらを整理して書けるのか、理解ができない(笑)それは、これまでの勉強の仕方が色濃く出てるんだと思うけど…。
僕の関わっている合唱団では、口頭であれ、印刷した資料であれ、作品を多角的にみることができるための何かしらのアプローチを採用しているし、僕からしたらそれを皆さんにも見て頂けるように公開しただけなんですけどね…。ただ、「もし情報が多すぎる!」「これを全部理解しないと演奏しちゃいけないの?」とか、そういうプレッシャーには感じないでほしいんです。
一番伝えたいことなんですけど、僕は「この解釈が正しい」っていう考え方そのものが違うと思っていて、だから、「どう歌えばいいんですか?」とか「自分の解釈が間違っているような気がして…」とかって思ってしまうこと自体、自分で歌うことへのハードルをあげてしまっていると思うんです。
僕だけむっちゃ語っててごめんって感じなんですが、一つ例を出させてください。ある合唱団から「大地讃頌」(大木惇夫作詞/佐藤眞作曲)を指導してほしいと言われたとき、その合唱団は少し年齢層が高かったので、正直とてもプレッシャーだったんですね。なぜならば、「大地讃頌」は戦争が絡んだ作品だったからです。もちろん、その内容に触れず、音程や和声の積み方、音楽の流れ、発声など、演奏を仕上げるという意味でやれることはたくさんあるのですが、でも、僕は「解釈」を一緒に考えたいと思って、可能な限りたくさんの資料を当日持ち込みました。稽古当日、他の曲もやらなければいけなかったので、「大地讃頌」にかけられる時間は30分程度。体操、発声の後、一番最初に「大地讃頌」を稽古しました。まず最初に、みなさんにたくさんの情報を提供しました。「大地讃頌」が「土の歌」の終曲であること、大木惇夫という詩人のこと、当時は文学作品に政府の圧力がかかっていたこと、同時代の詩人の別の作品例、「大地讃頌」の中でも「母なる大地」「我ら」「土」などのワードに込められているであろう暗喩的な意味など…。そのうえで、僕が言ったのは「みなさんの中で何か感じたことがあれば、それをなんとか僕に伝えようと歌ってみてもらえませんか?」ということです。「喜びならば声を少し明るくしたり、強い意思ならばしっかりとした発声をキープしたり」などの「こういう声を使えば、こう伝わる」ということも併せてレクチャーしました。そのあと、合唱団から出てきた声に、正直言葉がありませんでした。一回歌い終わった後、涙しそうな方もいらして、僕からは「何を感じましたか?」「この曲を通してみなさんは聴いて下さる方になにを伝えたいですか?」そういう問いかけをつづけながら、あっという間の30分でした。
つまりは、僕は解釈を教えていないのです。だけど、たくさんの情報があれば、そこから今までとは違う何かを感じ、実際に歌ってみて、すると予想もしていなかった感動に出会うかもしれないのです。この例は、合唱団自体が心で感じて表現する意欲が高かったり、戦争についても何かしらの想いを持っている方が多かったり、また曲もみなさんよく歌いなれた曲だったことなど、いろんな条件が重なった奇跡に近い一場面でしたが、でも、「大地讃頌はこう歌いましょう」という方法では生まれなかった瞬間で、また、こういう歌い方を一回知ってしまうと、この後の稽古の曲も、同じように心から感じて、自分なりの解釈を探してくれるようになったんですよね。
感動的で、密度が濃すぎるんですけど…。
1つの作品にまつわる可能な限り多角的な情報収集を心掛けて、その情報たちと向き合って、僕の中に湧き上がってくるものをそのまま音楽にし続けたい、と思っています。現実的には忙しさとの兼ね合いは大きいんだけど、作品にとっては僕の忙しさは関係ないですからね…。この方法の大きなメリットは、作品が持つたくさんの喜びや苦しみ、世界のどこかで存在した確かな事実を心で感じることができる(そういうつもりになる)事だと思います。どの作品もこの世界に生まれてきた理由がありますからね。それを僕も一緒に感じたいし、寄り添いたいし、真実が知りたい、ということでしょうか。
半年ぶりの「座談」、こんなところでしょうか。
自分の好きなものを、こんなにゆっくり考えたり、過ごしたりできるのはなかなかないから。こんな時じゃないとできないと思って、大きく構えて、いろんなことに挑戦できるといいですね。思いを持ち続けるってことすらも難しいときかもしれないけど、希望を持てるように、みなさんのためにできることをしたいです。
僕も同じ気持ちです。
心温まる?「座談」でした。最後までお読みいただいてありがとうございました!ちなみに、今回の「座談」の写真は伊藤家のアイドルももちゃんです。我々はいつも吠えられるのですが、しっぽを振って突進してきてくれます!
早くみんなに会いたいね!